GHANA

代表挨拶

HIROYA 基金の軌跡

 

一人息子を亡くした母との出逢い

3 月末、HIROYA 基金が 12 年に渡る活動を終了したという知らせが入りました。HIROYA 基金は、ここ数年、スプートニクのガーナの活動にも支援してきてくださいました。これまで HIROYA 基金の活動について、このガーナ挨拶でも書いた事があります。2013 年 10 月最後の日曜日、多月裕也さんはガーナの海で命を落としました。亡くなった当時、裕也さんは 1 週間後に一時帰国をすることを楽しみにしていてガーナのお土産をたくさん購入していました。しかし、その本来の帰国前にご遺体となっての帰国となってしまったのです。30歳という若さです。私が初めて裕也さんのお母様である緑さんと会ったのは、緑さんのご主人、そして裕也さんの奥さまと遺品整理にガーナを訪れ、当時日本人会の会長を務めていた方の仕事部屋でした。今でもその時の様子ははっきりと覚えています。沈んだ空気の流れる室内、皆話す言葉が見つからないでいました。そうした中、私の右隣に座っていた緑さんが「裕也のこと忘れないでくださいね。」と笑顔で私に言ったのです。私は緑さんの顔を見ることが出来ずに顔を背けて涙をポロポロこぼしました。このガーナ訪問の時に緑さんたちは、裕也さんが事故後運ばれた病院に足を運ぶのです。そこは簡素な診療所でした。この時、緑さんは(AED があったなら・・)と思ったそうです。こうして NPO 法人 HIROYA 基金が翌年の 2014 年に設立されたのです。

 

HIROYA 基金の歩み

HIROYA 基金は、設立されてから、ガーナに AED を5台を届け、実質最後の活動となってしまいましたがコロナ禍に於いては心肺蘇生法のトレーニング用マネキン 30 体を寄贈しています。ただ寄贈するのではなく、救命救急医療の必要性を伝えるべく、日系企業を訪問し、そこの従業員にトレーニングマネキンを使い心肺蘇生法のデモンストレーションを行ないました。日系企業訪問だけでなく、よさこい祭りでもブースで訪れる学生たちに心配蘇生法を伝えたのです。よさこい祭りに合わせて HIROYA 基金がガーナを訪れていたのにも理由があります。「ガーナの人たちと楽しく心臓マッサージや AED のデモンストレーションをしたいの。よさこい祭りの会場でやれたらいいなぁ。」とあの時と同じ笑顔で語っていたのです。緑さんの想いは 2016 年のよさこいから実現されました。よさこいに毎年参加している学生の中には、この HIROYA 基金のブースを楽しみにしていた子もいました。「今年もポンプをしたいの。」と学生に聞かれたことがあります。ポンプとは、心臓マッサージの事。ポンプを練習しに来た学生に、リズムを取るのに手拍子しながら指導する緑さんはじめ展子さん、佐知子さんのメンバー。ブースからは笑い声が響いていました。よさこいのプログラムには、HIROYA 基金の時間も設けられ、その時間では、意識不明の人を発見してから AED の装着までデモンストレーションされました。日系企業への訪問は翌年の 2017 年から行なわれました。忘れられない日系企業でのデモンストレーション
裕也さんが勤務していた会社を訪問した時のことです。デモンストレーションが行なわれたのは、裕也さんのお別れの儀が行なわれたショールームです。2013 年 10 月、あの場にいた誰もが深い悲しみで涙した場所には、心臓マッサージの方法を学びたいという想いで集まった大勢の社員がいました。一番に来た社員はメカニックの方でした。裕也さんと交流があったメカニックさんだなと、この時思いました。裕也さんが以前「この国の車社会を担っているのは自動車整備士さんですよ。」とくしゃくしゃの笑顔で語っていたことがあって、メカニックの方が真剣な眼差しでデモンストレーションを受ける姿に胸が熱くなりました。ガーナに住む者として出来る事を考える裕也さんは去年 13 回忌を迎えました。コロナ明け以降、ガーナに赴任してくる日本人は、裕也さんが休日に友人と楽しんだサーフィンで命を落としたことを知る人はいないでしょう。HIROYA 基金が、ガーナの救命医療に大きく関わってきたという軌跡を知る人はいないでしょう。裕也さんと日本人会の行事理事で一緒に運動会を盛り上げた頃は、今の様に商社も少ない時代でした。今は、そのころよりも多くの商社がガーナに入っています。商社に所属していない人も多くガーナに駐在しています。「日本とガーナの架け橋になりたい。」と裕也さんは緑さんに伝えた言葉です。今、ガーナにいる日本人は、皆それぞれ想いを抱いて奮闘していると思います。私はガーナに来て間もない頃、暗示とも警告ともいえる夢を見ました。長距離バスで事故に遭い、私自身が亡くなり上空から自分を見て「あー、私死んじゃった。ガーナで死んだらお母さんに怒られちゃう。」と母の悲しむ顔を想像して呟く夢でした。異国の地で不慮の事故で亡くなるという事は絶対にしてはならないと思ったのです。私の母は 2024 年 12 月に天命を全うしました。緑さんと初めて会った日本人会会長の仕事部屋だったことは先述の通りで、その日本人会長が裕也さんの遺影写真を選ばれました。それは、トリミングして引き延ばししたから画素数が粗い写真でしたが、裕也さんの笑顔の写真でした。「これなんか良いだろ。多月くん笑っているしよぉ~。多月くんを家に呼んで一緒にご飯たべる約束してたのによぉ。」若い人を理事に入れたから日本人会行事の力になってくれると、裕也さんを理事にスカウトした事をたいへん喜んでいた会長も 2021 年 12 月に亡くなったため、今生にはいません。もしご存命だったとしたら、商社が増え、起業して奮闘している若者を見て、裕也さんの死を無駄にしないために、どんな助言をしてくださるのでしょうか。日本人の一人一人が心肺蘇生法を学べる場があるといいなという私の想いにどんな助言をしてくれるでしょうか。裕也さんがここガーナで生きていたことを忘れないために、2013 年 10 月 27 日に起きた悲しい事故を伝えていくために、私に出来る事を考え続ける日々です。

                           2026/4/27 ガーナ挨拶No94
                              スプートニクガーナ

国分敏子


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